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20220227 3月合宿:表銀座縦走

文:竹村

2022年2月27日から3月4日にかけて、表銀座と呼ばれる燕岳から蝶ヶ岳までを縦走する合宿を行った。合宿完遂が立て続けになされていない山岳部の現状を鑑みて、集大成の合宿といえど達成可能な合宿を計画した。そうはいっても、冬の縦走合宿で1週間近く山にこもるというのは決して易しいものではなく、私自身、本当に達成できるのか、体力的に厳しくはないのか、と周囲の人から釘を刺されていた。様々なハプニングが起こった合宿ではあったが、無事に計画は達成された。以下に合宿の記録を記す。


早朝に離洛し、昼頃に穂高駅に降り立った我々は、タクシーで宮城ゲートまで向かった。ここから入山口となる中房温泉までは気の遠くなるような林道である。


コンクリの見えていた道も、いつしか雪に覆われ始め、やがてはくるぶしほどの積雪へと変わっていった。いくら歩いても、まだここは山道ではないわけで、スタート地点にすら立っていないと考えると、なんだかむなしく思えてきた。中房温泉についたのは16時半を回ったころであった。私はこの時ばかりはまだ張り切っていた小林を連れて、登山道の偵察へと出かけた。10分ほど登山道を歩いたところで、それまであった雪のくぼみがポツリと消えた。地形を見てもどこを伝って行けばよいのか、わからない。日も暮れ行こうとしている。あちらこちらと歩き回ったが、辺りは暗闇に包まれてしまい、我々はテント場へと引き返し、「よくわかりませんでした」と頼りのない報告をした。明日は無事に登山道を見つけられるだろうかという不安を抱えながら、その日はシュラフに潜った。


明くる日、登山道を探して一時間ほどラッセルで無理やり坂を上ってゆくと、木の看板が埋もれていた。登山道に合流したのだ。よく見れば、雪面にくぼみができており、これは明らかに登山道であると確信した。登山道がわかれば、あとはひたすら合戦尾根をラッセルして登るのみである。これがまた大変なのだが、一番の不安要素であった岸根が大活躍を見せてくれた。普段はへっぴり腰の彼は、雪深い坂道となれば、ラッセル車のごとく止まることを知らぬかのように登り続けた。常時、膝丈ほどの積雪ではあったが、全員が変わりばんこで協力したことで、何とか合戦小屋までたどり着くことができた。予定では燕山荘までの筈であったが、今日はこの小屋付近で泊まることにした。といってもまだ二時過ぎである。空き時間を使うことに如才ない我々は、この日も数名を連れて偵察へと出かけた。丘にのぼれば、燕山荘がすぐのところに見えた。


早朝、燕山荘へ向けて、合戦小屋を発った。燕山荘までの道のりは、そこまで長くはない。雪も、このあたりから締まっており、合戦尾根の登りよりは歩きやすかった。それでも、場所によっては雪深く、足がとられるところもあって、少々苦労した。燕山荘に到着し、少しばかり一服してから燕岳を目指した。私以外は全員空身で登ったため、あっという間に頂上に達した。これから歩く稜線を確認してから再び燕山荘へと帰った。そしてこの日も偵察を行った。ここから先は雪に埋まるという事はなく、所々岩が露出していた。明日は今回の核心ともいえる、蛙岩を通過する。


暗闇の中の稜線とは、なんと歩きにくいことか。街灯があるわけでもなく、ヘッデンを頼りに歩を進めるが、暗くてルートファインディングが難しかった。1時間ほど歩くと、山の端が赤味づいてきた。目指す稜線が見えて、心も踊り始めた。出発から二時間で、例の岩に達した。蛙岩という名のゆえんはどこにあるのか。どっかと腰を下ろした、何にも形容しがたい岩の塊が、我々を待ち構えていた。さて、ロープを準備するかと、とりあえず偵察を行ったところ、別段そういう処置を施さずとも通過できると判断した。そうかそうか、核心と考えていた岩だが、ロープなしで通過できるとなれば、これは苦労はかからないな、と高をくくっていた私を仏様は見逃してはいなかった。さっさと登ってしまって上で荷揚げを手伝おうと出しゃばる私の左足が、岩の間に挟まった。「おい、竹村、何をそこで遊んでいる」と後ろから急き立てられた私は、急いで足を引っこ抜こうとしたが、押しても引いても何をどうしても、抜けなかった。このままでは足を切断しないといけないかな、と私の背中に冷たいものが流れた。いかんいかん、足を切るなど考えられない、ともがく私を村田さんが助けてくれた。ピッケルで挟まった足をたたいて、押して引いてを繰り返すと、やっとのことですぽりと抜けた。仏様は見てござる。常に謙虚な気持ちが必要だと、痛感した。





長い稜線をただひたすらに歩いた。風はあったが、天気はすこぶるよく、歩いていて清々しかった。大天井の頂は稜線からも見えていた。稜線上を上って下ってを繰り返し、やがて最後の上りとなった。出発から7時間と30分でその頂を踏むことができた。眼下には大天壮が見えていた。今日は下ればもうおしまいさ、よく頑張った、とまたもや心が浮き気味となった我々を雲の上の存在は見逃していなかった。


冬季小屋は雪の下にあった。我々は一心不乱に雪をはねた。かき分けかき分け、扉が見えたが、しばれていて開かなかった。雪国生まれの私がその知恵を使って、しばれを解くと、開かずの門はすっと開いた。小林はこの日、幾度も幾度も茶を沸かし、それを疲れ切った皆にふるまってくれた。消費されゆくガスのことなど気にせずに。


朝、風は少々強かったが行動に支障はないため、出発した。大天壮から東大天井岳に至る稜線は広く、夜の帳が下りたままの中で道を見つけるのは大変であった。また、ある所から風が非常に強まり、立っているのも覚束無いほどであった。太陽さんが顔を出しても、なお風は強く、私は北岳の年末合宿を思い出してしまった。風にあおられながら、稜線をひた歩いていると、地形に妙な違和感を覚えた。一行は常念岳を目指して歩いている筈だのに、今歩いている山の尾根にはこの先ピークが見えない。そして隣の尾根には、高くそびえるピークが見える。やっちまった、と一行は引き返す羽目を被った。隣の尾根までは、幸いトラバースでたどり着けた。これは風が強すぎて雪が吹き飛ばされており、岩が露出していたからである。これでは雪崩の心配もないので、山腹を横切ることにした。その先の横通岳も同様、雪がなかったので横を通してもらうことにした。あたかも夏の道を彷彿とさせる岩の露出具合に、我々の歩も速まった。常念小屋にたどり着き、一服してから常念岳を目指す。常念岳もまた、どっかと立ちはだかって我々の前に威風堂々と君臨していた。ここでまた眠れる獅子の岸根が持ち前の根気強さで先人切って歩いてくれた。長い長いのぼりを、隊を導くように歩いてくれた。常念の頂上から、上高地が見えた。も少しで下山だ。男は黙って上高地!


昨夜は常念岳と蝶槍の間にある森林にテントを張った。そこから、上ってはコルに下りるを幾度か繰り返す。朝日が昇り、美しい景色が眼下に広がった。一面広がる雲海を橙色に染め行く光に、我々は言葉に余るほどの感動を覚えた。ワカン(かんじき)を履いていたが、途中からアイゼンに履き替えた。蝶槍の中腹から蝶ヶ岳にかけては岩が露出しており、すたすたと歩けた。


蝶ヶ岳はどこが頂上なのか、標識はあったが、それは単なる目印にすぎず、ここが頂上だといわれてもピンとこないほどに平らであった。常念岳側から蝶ヶ岳に向かって左手には、日本の高峰富士山が見渡せた。そして、左に目をやれば、槍ヶ岳や穂高連峰が続いていた。この大パノラマを我々は独り占めしているのである。「小林、写真撮ってくれよ」、「ああ、ちょっと待ってな」・・・。もう、我々には、山にいるという感覚は失せ始めている。あとはもう下るだけだ。今日中に下界に下りるのだ、も少しだ、と皆の気が急く。そうはいっても、下山が最も危ないことを我々は知っている。あの植村直己さんも、下山の途中に命を落としている。気分が高揚してはいても、慎重に下山をする。ピンクテープ頼りに坂を下ったが、晴れていたため、そのしるしを見つけることに労苦を必要とはしなかった。そして何より、この下山では長い滑り台が大いに役立った。皆が無我夢中で滑り降りるさまを見て、無邪気だな、と思った。もっとも、私自身もその無邪気な人間の一人である。長い滑り台を降りると、徳沢だった。二匹の猿が愛撫していた。邪魔しないように、そそくさとその横を通った。


アズサ川水清く、とうとうと流る。長い長い道を、清らかに流るる川を横目にひた歩いた。この時、下山が大の好物である牧野にガソリンが入った。彼は下山になると、止まることを知らない。気が付くと、前をゆくはずの彼の姿は、どこにも見えなかった。上高地にたどり着き、それでもまだ上高地だ、やった、という気持ちにはならなかった。これからまだ長い林道を歩かねばならない。そしてトンネルを二つ越えねばならない。上高地から二時間ばかりでトンネルに着いた。長い長いトンネルだった。その長いトンネルを抜けると、下界だった。車が走っていた。中の湯温泉があると聞いていたが、我々を歓待してくれるような旅の宿があるという感じでもなかった。とにもかくにも、18時のバスの時間には間に合えたことがよかった。よくも蝶槍手前の林から、中の湯バス停まで一日で来れたものだと、今までの行動が感慨深かった。あとはゆっくりと家路をたどるだけである。これをもって合宿報告の筆をおくこととする。


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RUAC
-立命館大学体育会山岳部-

縦走やクライミングなど、一年を通して山で活動しています立命館大学体育会の部活動です。

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